圓應寺:大田区の墓地にお墓を建てる


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真言宗智山派 播曜山恵門院 圓應寺


真言密教の道場としてその法灯を絶やすことなく多摩川の流れの歴史とともに七百年・・・・・・


人も自然も神仏も、
すべては過去・現在・未来の三世をつらぬく実在である大日如来の分身であり、
鳥の声、人の心、行く雲、流れる水・・・
生きとし生けるものの生命は完璧に調っています。
いま私たちは、謙虚に宇宙や自然の声に耳を傾けながら、
有限なる人間を超えた大きな生命の流れを
見つめる時がきているのではないでしょうか

観音堂
本堂全景

圓應寺の歴史

板碑が語る圓應寺

圓應寺は、山号を播曜山、院号を恵門院と号し、真言宗智山派の寺です。『新編武蔵風土記稿』(江戸後期に書かれた地誌)巻之四十四に「開山の名及び年歴を伝へず、客殿八間に五間、本尊阿弥陀佛を安ず」と記されているように、その開創年代・開基とも定かではありません。しかし、戦前まであった板碑十数基に記されていた正応四年(1291)、永仁三年(1295)などの年号の刻銘から、約700年前の鎌倉時代後期に創建された古寺ではないかと言われています。

江戸時代~多摩川の氾濫とその岸辺に暮らす人々と共に~

多摩川は、寛保二年(1742)、天明六年(1786)の大洪水が記録に残っているように江戸期に度々洪水を起こしています。河川の大氾濫だけでなく、古市場村に住んでいた人々は、作物の不作や地震・雷など天災や火事・病気などの災難に対して、今日のような防御や救済の対応策を持たなかったので、身体や財産を守り生活を維持するために神仏の加護を頼りにしていました。そのため、村内の人々は厚い信仰心を持って当山に参詣したり、庶民信仰の庚申講では庚申待ちの順番に当った家にみなが集まり、青面金剛の掛け軸の前で線香や燈明をあげて講員の無事息災を祈ったようです。

明治時代から終戦まで

明治5年(1872)には一宗一管長制が定められ、智積院・長谷寺は新義真言宗の総本山となり、明治33年(1900)に新義真言宗は智山派、豊山派に分派しました。それにより圓應寺は、西六郷にある宝鍾院の末寺として、智山派に属しました。多摩川が洪水した翌年の明治41年(1908)六月当時、住職照雲は信仰厚き檀家の方々の協力を得て損傷が甚だしかった本堂を再建、さらに大正7年(1918)八月には庫裏を再建しました。しかし、住職隆音の代、今次の大戦の空襲で本尊の阿弥陀如来像をはじめ本堂・大師堂など寺中一切が悉く消失してしまいました。

戦後-新たな歩みのはじまり

寺中一切が悉く消失した圓應寺の戦後の歩みは、大森区と蒲田区が合併して大田区となった昭和22年(1947)から、住職隆音の手によって再建が始まりました。まだ、戦争の傷跡と戦後を引きずった時代でしたが、その隆音の代の昭和29年(1954)に本堂が再建され、昭和39年(1964)には庫裏が再建されました。

圓應寺は住職不在の困難な時代を何度かくぐり抜けながらも、真言密教の道場として、その法灯を絶やすことなく済世利民の役割を果たし、この多摩川の流れの歴史とその縁の古市場に住む人々と共に艱難辛苦を共有しながら歩んでまいりました。時代の諸相はますます激しく変化しておりますが、人が生まれながらにして仏性を有っていることに変わりはありません。当山は小さくとも、これからも法灯を高く掲げ、済世利民の今日的役割を時代の変化を見極めつつ果たしてまいりたいと思っております。

修行大師像

■修行大師像

板碑

■板碑

庚申供養塔

■庚申供養塔

歴代住職の墓所

■歴代住職の墓所

交通アクセス

住所
東京都大田区矢口3-21-15
交通
■東急目蒲線「武蔵新田駅」下車 徒歩15分
■東急目蒲線「矢口の渡し駅」下車徒歩15分
■東急バス反01線(川崎駅~五反田駅) 「多摩川大橋駅」下車 徒歩5分
■タクシー JR蒲田駅より 約10分
■車 首都高速2号線戸越ランプより 約20分

■もしもの時の諸手続きと先祖供養

もしもの時の諸手続き 先祖供養 お仏壇
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先祖供養

お盆供養/彼岸供養

お仏壇のある暮らし