墓の語源と歴史|お墓・墓地辞典 |
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お墓・墓地辞典
2.お墓・墓地辞典 墓の語源と歴史死者の遺体や遺骨を葬る場所を墓といいます。その墓が集まった場所を墓地とよんでいます。墓の語源は、「はふりか」(葬る場所)とも、「はてか」(命の終わりの場所)とも。 墓の歴史は古く、縄文時代には埋葬した遺体をある期間の後に洗い直して甕に入れて葬った例や、弥生時代には甕棺墓や箱式棺墓などの墓があったことが発見されています。天皇や豪族の墓は、古墳として今でも残っているように立派なものでしたが、庶民の墓は塚状に盛り上げたり、石を積む、木を挿す、といった程度のもの(これらを墓じるしとよびます)で、墓石を建てるようになるのは江戸時代に入ってからです。墓地の場所も、屋敷の敷地内であったり、人里離れた場所であったり、一族や村で共同墓地を作ったりと様々でした。 また、一般庶民にとって墓は近寄り難い存在でもありました。それを想起させる例として、両墓制があります。両墓制とは、西日本でよく見られる事例で、人里はなれた場所に遺体を埋葬する埋め墓と、身近な場所にお参りをするために設ける詣り墓の二種類の墓を持つものです。これは死には穢れがついており、死者を葬る場所には近づきたくないという心理が働いていたと考えられます。ただし、両墓制は土葬の風習の地域に見られたもので、火葬が一般的になった現在では、ほとんど見られなくなりました。 墓と仏教(寺院)との関係は、平安時代ころから始まり、江戸時代に寺請制度とともに一般に定着しました。それまでは、死(死者)を穢れや畏れるべき存在と考えていたので墓を遠ざけていたわけですが、仏教は死を穢れや怖い存在と捉えなかったことから、墓地の近くに寺院が建てられ、あるいは寺院の中に墓地を設けるなどして、死者の供養を僧侶が請け負うようになったのです。仏教の定着によって、墓が身近になり、亡き人々との交流の場所として私たちにとってかけがえの無い場所に変わっていったともいえます。墓の歴史から、仏教が日本人の霊魂観に影響を与えたことを垣間見ることもできそうです。 墓はただ単に遺体を処理する場所ではなく、ご先祖様に出会い、自分のルーツを確認するなど、人間的な営みの場として大切な場所といえるのではないでしょうか。 霊魂の依代としての墓石仏教の始祖であるお釈迦様が亡くなられると、信者は亡骸を火葬し、遺骨(仏舎利)を埋めたうえに石塔を建立したといわれます。その石塔をストゥーパといいます。以後、仏教では供養のために塔を建立することが習慣的になっていきます。お墓に立てる木製の卒塔婆はストゥーパを漢字で音写したものですし、五重塔や三重塔も起原はストゥーパと考えられます。墓石もストゥーパを起原とします。 墓石は、日本では平安時代の貴族や高僧の墓に見られるようになりますが、庶民の間に普及するようになるのは、江戸時代に入ってからです。それまでの庶民の墓は、塚や小石、挿し木など、目印としての簡単なもの(墓じるし)で済ませていたようです。墓と仏教(寺院)のつながりが密接になるにしたがって、墓石も定着していきます。 墓石は、初期は五輪塔や仏像付きの石塔が建立され、明治時代以降は、現在もよく見られる角柱型のものが多くなりました。墓石の大きさもかつては個人や夫婦のために小さいものを建てましたが、やがて一族で一つの先祖代々をまつる大きなものへと移行していき、最近では、家名を書かず、抽象的な言葉を書いた掲示板型の墓石も増えてきているようです。 また、墓石には霊魂の依代としての意味もあります。霊魂を墓石に宿らせて、その墓石を供養の対象とします。墓石に向って拝んだり、お経をあげる背後には、依代としての墓石の意味があると思われます。 現代では、核家族化や後継者不足の問題から、一家の墓を継承することが困難となり、合同墓や散骨など新たな墓の形態が現われてきています。墓は家族制度と密接な結びつきを持ってきました。墓石の形状や墓の形態の変化から、家族というものの変化が感じられるのではないでしょうか。 |